救いの手が、見えてきた!!
2011-12-26(Mon)
クリスマスを迎えた私たちは、救い主をどう受け止め、感じたらいいのだろうか。
間もなく、この混沌とした年が終わろうとしているのに、まだ、出口が見えない。
救いの手が見えるなら、どんなにか安心できるだろうに…。
クリスマスの昨日、明るい光の中、残雪が眩しく輝いていたとき、
一組のご夫妻が、クリスマスの祈りのため、教会に来られた。
話を聞くと、このブログを見ておられ、一度、聖アンナ教会に来てみたかったという。
奥様は、埼玉県の聖公会の教会に所属し、クリスチャンだった。
お二人は、休みの日、埼玉から、原発事故被災支援のため、ボランティアで来ていた。
その支援の働きは、震災や原発事故で野放しになっている犬や猫を助けることだった。
乗ってきた軽ワゴンの中に、可愛い一匹の、雌犬がいた。
「この犬は、浪江で保護されたんです。やっと、尻尾を振って、甘えるようになりました」。
福島県動物救護本部に、現在被災した200頭ものペットたちが、飼い主を待って保護されている。
被災したペットたちは、野生の動物と違い、人間との関わりを求めている。
救護本部では、被災した動物の里親と、ボランティアを募集しているという。
参考 : 福島県動物救護本部
テレビや新聞の報道で知っていた動物の救護活動、そのご苦労を直接聞いて、クリスマスの救いの手は、ペットに差しのべられていると思った。
まして、私たち人間に、それ以上の、救いの手があるに違いない。
埼玉から来られた、ボランティア活動のご夫婦と話をして、
週刊朝日12月30日号の、「宗教は被災者の心を支えられたのか」という記事を思い出した。
この記事は、宗教ジャーナリスト 小川 寛大氏が書いたものである。
この記事の中で、石巻市の住職が、お寺を檀家や近隣の住民百数十人に、避難所として開放したことが
書かれてある。
さらに、僧侶10人が、それぞれ車にコーヒーメーカーやお茶菓子を持って、仮設住宅を回り、子供と一緒に遊んだり、宿題を手伝ったりしたことを紹介している。
これらの活動が、お寺をより身近なものとし、僧侶を親しめる存在にした。
また、岩手県山田町の、津波の被害を受けた神社の宮司は、「神も仏もいるもんか」という気持ちでいることを心配して、ミニ神棚を千個取り寄せ、仮設住宅に配ったとある。
カトリック釜石教会では、神戸から来た、キリスト教徒の臨床スピリチュアルカウンセラーが、震災で動揺する被災者の心を慰められないかと、活動した。
その彼は言う、「宗教を広めるのではなく、信仰を広める行為、それが自然を愛したり、神などの大きな存在と素直に向き合う心を広めたりする」。
そして、津波で家族を失った漁業関係者から、「海は私から色々な物を奪ったが、海を恨んではいない。これからも海と共に生きていく」という、言葉を聞く。
筆者は言う、「支援活動に宗教色を出すかは本質ではない。重要なのは、行為が信仰心に基づくものであるかどうかだ。本心からの信仰心が人の心を打ち、新たな信仰心を芽吹かせるのだ」と。
参照 : 立ち読み週刊朝日「宗教は被災者の心を支えられたのか」
被災地で、さまざま宗教が支援活動を行っている。
それらに共通していることは、自らの教団名を明かさず、支援に徹していることだった。
これらの活動を知って私は、クリスマスの意味する救いの手が、垣間見たよ うに思った。

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間もなく、この混沌とした年が終わろうとしているのに、まだ、出口が見えない。
救いの手が見えるなら、どんなにか安心できるだろうに…。
クリスマスの昨日、明るい光の中、残雪が眩しく輝いていたとき、
一組のご夫妻が、クリスマスの祈りのため、教会に来られた。
話を聞くと、このブログを見ておられ、一度、聖アンナ教会に来てみたかったという。
奥様は、埼玉県の聖公会の教会に所属し、クリスチャンだった。
お二人は、休みの日、埼玉から、原発事故被災支援のため、ボランティアで来ていた。
その支援の働きは、震災や原発事故で野放しになっている犬や猫を助けることだった。
乗ってきた軽ワゴンの中に、可愛い一匹の、雌犬がいた。
「この犬は、浪江で保護されたんです。やっと、尻尾を振って、甘えるようになりました」。
福島県動物救護本部に、現在被災した200頭ものペットたちが、飼い主を待って保護されている。
被災したペットたちは、野生の動物と違い、人間との関わりを求めている。
救護本部では、被災した動物の里親と、ボランティアを募集しているという。
参考 : 福島県動物救護本部
テレビや新聞の報道で知っていた動物の救護活動、そのご苦労を直接聞いて、クリスマスの救いの手は、ペットに差しのべられていると思った。
まして、私たち人間に、それ以上の、救いの手があるに違いない。
埼玉から来られた、ボランティア活動のご夫婦と話をして、
週刊朝日12月30日号の、「宗教は被災者の心を支えられたのか」という記事を思い出した。
この記事は、宗教ジャーナリスト 小川 寛大氏が書いたものである。
この記事の中で、石巻市の住職が、お寺を檀家や近隣の住民百数十人に、避難所として開放したことが
書かれてある。
さらに、僧侶10人が、それぞれ車にコーヒーメーカーやお茶菓子を持って、仮設住宅を回り、子供と一緒に遊んだり、宿題を手伝ったりしたことを紹介している。
これらの活動が、お寺をより身近なものとし、僧侶を親しめる存在にした。
また、岩手県山田町の、津波の被害を受けた神社の宮司は、「神も仏もいるもんか」という気持ちでいることを心配して、ミニ神棚を千個取り寄せ、仮設住宅に配ったとある。
カトリック釜石教会では、神戸から来た、キリスト教徒の臨床スピリチュアルカウンセラーが、震災で動揺する被災者の心を慰められないかと、活動した。
その彼は言う、「宗教を広めるのではなく、信仰を広める行為、それが自然を愛したり、神などの大きな存在と素直に向き合う心を広めたりする」。
そして、津波で家族を失った漁業関係者から、「海は私から色々な物を奪ったが、海を恨んではいない。これからも海と共に生きていく」という、言葉を聞く。
筆者は言う、「支援活動に宗教色を出すかは本質ではない。重要なのは、行為が信仰心に基づくものであるかどうかだ。本心からの信仰心が人の心を打ち、新たな信仰心を芽吹かせるのだ」と。
参照 : 立ち読み週刊朝日「宗教は被災者の心を支えられたのか」
被災地で、さまざま宗教が支援活動を行っている。
それらに共通していることは、自らの教団名を明かさず、支援に徹していることだった。
これらの活動を知って私は、クリスマスの意味する救いの手が、垣間見たよ うに思った。


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