大内宿・三澤屋

2011-03-01(Tue)
昨日の、大内宿、そして、三澤屋での興奮が、今日も、続いている。
実際、行くまで、単なる観光地と、侮っていた。
雪降る中、2時間もかけて行く価値があるのか、運転しながら、頭をよぎった。
ところが、私の想像と期待を、嬉しいくらい、大きく裏切ってくれたのだ。

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帰ってから、ブログに載せるため、ネットで調べた。
今現在、大内宿に訪れる観光客は、年間110万人を超えている。
三澤屋で、目当てのネギそばを食べるなら、忙しいときは、行列ができるだけでなく、
番号札を渡され、1時間半以上、待たされるのが当たり前らしい。

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それでいて、観光地でありがちな、うるさい音響、毛羽毛羽した飾りつけ、客への対応の横柄さ、
さらに、まずい料理の数々が、全くと言っていいほど、大内宿・三澤屋には、無かった。

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400年の歴史を刻んだ、建物と、おもてなし、それが息づいている。
接客しているご婦人たちは、ほとんど、50歳以上と思われる。
笑顔が素晴らしい、言葉遣いが丁寧である、しつこい質問に面倒がらず答えてくれる、
料理の出るのが早い、等など。

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何げなく置いてある調度品に、どこか懐かしさを感じさせ、三澤屋の歴史を、無言で伝えている。
大内宿に、さらなる、興味をひかれた。

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大内宿の歴史・半農反宿期
江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。同街道は、会津藩・若松城(会津若松市追手町)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永)、関山宿(会津美里町氷玉関山)を経て山岳地に入り、氷玉峠および大内峠を越えて大内宿に入った。大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道・今市宿(栃木県日光市今市)へと至った。若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な駅となった。
延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした。すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山。地図)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没(五十里ダム参照)。会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道に物流はシフトしてしまった。40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、既に定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。
慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イザベラ・バードとは、初めて聞く名前だ。

イザベラ・バード
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年10月15日 - 1904年10月7日)はイギリスの女性旅行家、紀行作家。明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(邦題『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』)を書いた。
1831年イギリス・ヨークシャーの牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年"The Englishwoman in America"を書いた。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳の日本人男性1名のみ)。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を1880年 "Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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大内宿の歴史・純農村期
1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年(明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した。新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年(昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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大内宿の歴史・近代化
46年(昭和21年)11月20日、楢原村は町制施行して楢原町となるが、この年に当地にも電気が引かれ、ランプから電灯での生活に変化した。1955年(昭和30年)4月1日には楢原町・旭田村・江川村が合併して下郷町が成立。日本で高度経済成長が始まると、当地にも昭和30年代半ばにはテレビや耕運機を手に入れる世帯が見られ、昭和40年代になると簡易水道が引かれて近代化の波が押し寄せ始めた。
昭和40年代初頭から外部の研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると、当地の旧宿場の街並みが再評価され、また、その街並みは住民の生活習慣や互助組織(結・講)に支えられていることが判明した。その一方、当地は近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれているとも評価され、外部の研究者らが街並みの保存活動を始めた。1969年(昭和44年)6月26日の朝日新聞記事で当地が紹介されたことに端を発し、連日のようにマスメディア・研究者・観光客が当地に詰め掛け、1970年(昭和45年)放送のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』のロケーション撮影も行われて注目を浴び、同年、外部の研究者らが下郷町や文化庁に旧宿場の保存を訴えた。このとき一部のマスメディアが、超高層ビルも建ち始めた都市部と比較して、当地が貧乏であるから茅葺屋根の家に住んでいる等と報道したため、住民は茅葺屋根の家に住むのをためらうようになり、住民による保存活動は盛り上がらなかった。
1976年度(昭和51年度)撮影の国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。
この頃には旧街道沿いの民家に赤や青のトタン屋根が目立つようになった。県道下郷会津本郷線大内工区は未着工。周辺農地も圃場整備実施前。当地の近くで、1971年(昭和46年)より大川ダム、1974年(昭和49年)より大内ダムの建設が始まると、住民はダムの補償金や建設工事の従業収入を得た。また、農業などの第一次産業中心の生活から、通勤して第二次産業・第三次産業で現金収入を得る暮らしへと転換するようになった。1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が始まったため、福島県は大内地区に選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否し、旧街道は舗装され、新たに得た収入をもとに茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、台所・風呂・トイレの近代化をしたり、家屋の増改築をしたりするようになった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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大内宿の歴史・観光地化
1980年(昭和55年)7月12日、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定。1981年(昭和56年)4月18日、長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて旧宿場としては全国で3番目に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。同年5月14日には「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例施行規則」も制定された。この頃から住民による町並み保存会の活動が始まり、「大内宿を守る住民憲章」も制定された。1984年(昭和59年)9月5日には、旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」(大内宿町並み展示館)が開館した。
子安観音堂付近から見た大内宿(2006年7月)1992年(平成4年)には、第1回「美しい日本のむら景観コンテスト」の文化部門で、農林水産大臣賞を受賞。1996年(平成8年)からは、旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり、「裏配線」により旧街道の無電柱化をしたり、観光駐車場を新設したりして環境整備をした。1998年(平成10年)には「大内宿結いの会」が結成され、住民による茅葺屋根の復元や葺き替え技術の伝承が開始された。2004年(平成16年)には「美しい日本の歩きたくなるみち500選」、2005年(平成17年)には「手づくり郷土賞」(大賞部門)を受賞。
なお、観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、2006年(平成18年)には91万人を超え、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。2007年(平成19年)には年間観光客数が1,029,150人に上り、100万人を突破した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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大内宿に、降り続く雪。
山奥深い、ほとんど忘れ去れるくらいの、小さな宿場集落。
その時の時代に翻弄されながらも、そこに、ゆったりと時が流れ、都会では決して得られない安らぎが、綿々と続いていた。
ふと、私は、1972年の映画、「失われた地平線」の桃源郷を、彷彿させられた。

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プロフィール

司祭 ヨハネ 橋本光明

Author:司祭 ヨハネ 橋本光明
 Rev.John M.Hashimoto
福島県福島市にある吾妻高原聖アンナ教会の牧師・司祭。
出身地は、福島県いわき市平。
1947年(昭和22年)3月生。
日本聖公会仙台基督教会(宮城県)、鶴岡聖公会(山形県)、米沢聖ヨハネ教会(山形県)、二本松聖マリヤ教会(福島県)、福島聖ステパノ教会(福島県)の牧師および管理牧師、福島聖愛幼稚園の園長として勤務。
挙式組数が、3000組を超え、朝、夕の祈りに、挙式者を覚え、ご家族のご健康と、幸せを祈る毎日です。
モットーは、キリストが、十字架の死を通して、自己犠牲と無償の愛を示された。その愛を、自らも実践し、キリストの愛を、一人でも多くの人に伝えたい。

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